彼女の記憶
目が覚めたとき、僕は病院のベッドにいた。 ベッドの上で、女の人が僕に、僕が交通事故にあったのだということを話してくれた。 その女の人は僕の姉だった。 医者の話では、記憶がない他は体のケガも打ち身ぐらいで大したことはないので、すぐに帰ってしまっていいということだった。 姉の運転する車で家へ向かう道々、姉と友人が僕にいろいろな話をしてくれた。 二人の話によると、僕は十九歳で、大学生で、今は夏休み。 姉の名はマリ、友人の名は聖。 僕は生まれてからずっとこの町に住んでいる。 僕は犬の散歩をしているときに車にぶつかった。横断歩道を渡っていたらよそ見していたドライバーが急に車を発進させたんだけど、あまりスピードを出していなかったから、かすり傷だけで死なずにすんだらしい。そのとき一緒だった犬はアオ。 「運悪かったら、今頃あんたの葬式だったかもね」 聖とマリは笑いながら会話している。きっといつもこんな調子なのだろう。彼らは仲がよさそうだ。人が記憶喪失だって言うのをまるで気にしていないかのような陽気さだ。 その雰囲気につられてなのか、僕も自分の記憶がないことにあまり焦りを感じなかった。 家の前に着くと、マリが運転席を降りてさっと後部座席のドアを開けてくれた。 こんなことをさりげなく当たり前にやる、彼女はやさしい人なのだと思った。 玄関に入ると犬が飛びついてきた。でかいハスキーがしっぽを振って僕を見ていた。 「ただいま、アオ」 「お前の散歩係が帰ってきたぜ」 二人が青の頭をなでて家に入っていく。あとに続く僕に、アオもついてきた。 「ここが、僕の…家?」 「そっ、お母さんまだ帰ってないけど、お前とマリんち。おれんちはここから五分くらいんとこ」 「で、二階に個人の部屋。あんたの部屋もあるよ。今から見てくる? 先にお茶する?」 「あ、じゃ、見てくるよ。えーと」 「部屋は一番奥の扉。手前が母さんの部屋で真ん中が私の部屋」 お茶の用意をするマリと聖を居間に残して2階に上がるとアオがついてきた。 二階には三つの部屋があって、マリが言ったとおり一番奥の扉を開けると、そこが僕の部屋だった。と言っても僕は何も覚えていない。何も見覚えのあるものはなく、窓の景色も見慣れたものはない。 部屋は東と南が窓だった。東の窓のところに机がある。本棚とか引き出しとか、机の上とかあちこちに、人がこの部屋で生きているという感じがした。その人は僕のはずだ。でも僕にはそれがわからない。なんだか知らない人の部屋に忍び込んで、見つけられてしまうのを待っているかのような気分だった。 やっと僕はいすに腰かけて、窓の外の夕陽を見た。家に帰ってきたとき空はまだ青かったけれど、今は傾き始めた太陽が部屋の中を少し赤くしている。 僕の足元にはアオが横になっていて、僕はアオの頭をぼんやりなでながら空の様子をながめた。 夕飯の時間になって母はやっと帰ってきた。 「ごめんね、ほんとはもっとすぐに帰ってきたかったの、だけど出張だったから…でも事故にあったって聞いてこれでも大急ぎで帰ってきたのよ、大したけががなくてほんとによかった」 「はは、おばさんにとっては記憶喪失は大したケガじゃないんだね、ま、ケガじゃないか」 「そうか、そうよね、記憶喪失は私もまだなったことないわね、でもまあ、そのうち治るんじゃないかしら?」 「そうだね、放っとけばどうせそのうち戻るんじゃない?お医者さんだってそんな感じのこと言ってたし」 なんだか不思議な食卓だった。 少し天然のやわらかいお母さん、妙に冷めた目で遠くを見るように笑うマリ、なぜか何の違和感もなくうちで夕飯を食べる陽気な聖。そしてその三人を全く知らない僕。違和感があるとしたら僕だろうか? いや、この人たちはそんなもの微塵も感じていないに違いない。僕は根拠もなく確信した。 聖は両親が外国で仕事をしていて、一人暮らしをしているという話をしてくれた。だから毎晩家で夕飯を食べるのだそうだ。 他にわかったこと。お母さんは女手一つで僕とマリを育ててくれてるから、毎日仕事が忙しくて、あんまりみんなと一緒にご飯が食べられないらしい。 それから、マリはすごく料理が上手だ。 その晩、見覚えもない自分の部屋で僕は随分よく眠ってしまったようだった。体は部屋を覚えててほっとしたんだろうか、目が覚めるともう十時だった。 目を開けてしばらくのあいだ、肌掛けがあったかいのか部屋が蒸し暑いのか考えていたら、自分が自分の事を何一つ思い出せない事を思い出した。 一階におりていくとマリが、食事の支度をしているところだった。 「おはよう、よく寝れたみたいだね。私も寝坊しちゃった」 僕の顔を見てそう言うと、彼女が僕の分のご飯をよそってくれた。ふたりだけの静かな朝食だった。マリは少しずつ話をする。 おかあさんがもう仕事に出かけたこと、マリがアオにもうごはんをやったこと、いつも散歩は僕が夕方していること…僕のことはあまり話さない。自分のこともそんなに言わない。 僕が聞くのを、待っているのだろうか。僕が思い出すのを、待っているのだろうか。 朝ご飯を終えて食卓を片付けていると、聖が来た。かばんからたくさんの封筒を取り出した。全部写真だ。昨日の夜うちから帰ったあと、バイト先の写真屋に行って、今あるフィルムを全部現像してきたそうだ。 「ほら、これがアオだろ、散歩のやつ、このまえ学校で撮った写真、遊園地の写真…」 聖が分厚い写真の束をぱらぱらとめくっていく。そこにはたくさんの「僕」が写っていた。 撮影者である聖の写真は少ない。僕、マリ、アオ、学校と思しき建物、遊園地、色とりどりの、笑う人々… 「遊園地なんて行ったんだね」 「ああ、鉢合わせした時のね」 「そう、知り合いにチケットもらったんだけどさ、他のやつも誘って4人ぐらいで行こうとしたら2人ともインフルで寝込んでさぁ… 券が期限ギリギリだったから仕方なくて、俺たち2人で行ったんだよ。そしたらマリがいて」 「ああ、そこで鉢合わせた、と」 「そう、しかもマリがデート中だったんだ! びっくりしたよ、なんかマリと似てるなーと思って遠くから写真撮ろうとしたら気付かれてさー」 「まさか会うとは思わなかったわ。まぁ結果的には楽しかったけど」 「それでマリの彼氏に会ったんだ。ほらこの写真に写ってる」 「ホントだ。そういえば何枚か撮ってたもんね」 「へぇー、かっこいいね」 聖が写真をめくる手を止めて、一枚の写真を示した。その写真に笑っているマリと青年がいた。マリと聖のやりとりが展開していく。写真の続きをを見ながらそれを聞く僕。 「顔だけよ。優柔不断。優しいけどね」 「手厳しいね、マリ」 「そう? 優しいだけの男なんてダメ」 「じゃなんで付き合ってんだよー」 「さあね。矢田君最初あんたのこと見て女の子だと思ったんだって」 「あ、そうそう弟だって聞いて『えっ』て、びっくりしてたな。へえ」 「そうなんだって、帰り際に言ってたよ。ホラ照れて赤くなってる」 「ほんとだ、少し赤いかな。…僕そんな女の子っぽいかな」 言われて写真を凝視する。そんなふうに見えるだろうか。見覚えも愛着もない顔だが、仮に贔屓目に見たとしてもそこまで女っぽい気はしないけれど、やはり自分だと思うと見方は変わってしまうのだろうか。 「う〜んどうだろう…この時少し髪長かったしなぁ。この後でちょっと切ったんだよ、今より長いだろ?」 「矢田君目悪いのよ。お金がなくてメガネ買い換えられないんだって」 「はは、遊園地なんか行かないでメガネ変えればいいのに」 「そう言った。そしたらチケットバイト先の人にもらったんだって、彼女にフラれたからもう使わないって言って」 「かわいそうだね、チケット買った後でフラれるなんて」 「そうだね。で、だけどこの前、使ってたメガネ落として踏まれて壊れちゃって、今度新しくするんだって。それでこの日は裸眼だったから、きっと、よく見えなかったのね」 「ふーん、それで勘違いねえ…まぁお前顔かわいいもんな、そういう時もあるよ」 「間違われたの初めてじゃないしね」 「そうなの? ふつうの顔だと思うんだけどな」 「ちっちゃいころはホントに女の子みたいだったんだよ」 「写真お前の部屋にいっぱいあるんだぜ。これから見てみる?」 「いいじゃない、そうしたら。私はバイト行くからあとよろしく」 「あ、待って待ってマリ、写真全部見といてよ、なんかほしいのあったら焼き増しするから」 「ありがとう。貸して。ふぅん…」 僕は持っていた写真の束をマリに手渡した。彼女は少し冷めたような目で、口許にやわらかい微笑みを浮かべて写真の一枚一枚を見る。 ふと落ち着いた目がやさしくなる。マリと矢田さんと、聖と僕が四人で写った写真だった。 聖と僕は楽しそうに笑っていて、矢田さんはちょっと照れたような顔でマリの肩に手を回している。マリはやっぱりちょっと冷めた目で、いたずらっぽく矢田さんを見ている。 その写真で手を止めたマリ、他の写真より少しだけ長くその写真を見つめたマリの目が、やわらかくて、やさしくて、このひとはこんなにやさしい目をするんだ、このひとはこんなにやさしい人なんだ、と思った。彼女のそのまなざしが、ふしぎな懐かしさとあたたかさで、僕の記憶に残った。 マリが出ていってしまってから、僕たちは僕の部屋へ行った。聖は慣れた様子で僕の本棚から数冊のアルバムを選び出す。 「これが小学生、これが二年生と三年」 「多いね」 本当に、どのページを見ても、これでもかというほどたくさんの写真があった。そして、ほぼ必ず僕とマリは一緒に写っている。家で写したものには、もちろんアオも一緒だった。 「ああ、おばさん写真撮るの好きだから、たくさんあって、きちんとしてあるんだよ」 「へえ…。学校上がる前のは無いの」 「え?小学校より古いのは…おばさんの部屋にあるんじゃない? 仕事とか忙しかったらしいしさ」 「そっか、二人も子供いたら手かかるし仕事も大変だよな」 「そうだよな、目え離せないし、ちっちゃい子って。お母さんとかお父さんって大変だよなー」 「そうだよね。そういえば、僕のお父さんって、そのころはいたのかな」 聖の顔がふと真面目になった。 「いたよ。小学校上がってすぐ亡くなった。車の事故だったんだって」 「そうだったのか…じゃあ僕はきっとお父さんのことあんまり覚えてなかったんだろうね」 ただでさえほとんど覚えていなかったであろうものを僕は完全に忘れてしまった。 「うん…、いや、それなりに覚えてたよ。週末とかいっぱい遊んでくれたんだって」 「そうなんだ」 アルバムを繰る手を止めて、僕たちは話を続ける。 「そりゃ気になるよな。マリは何にも話してないの?」 「聞いてないなあ、あんまり思い出す系の話しないんだ」 「ふうん。自然に思い出すの待ってるのかな」 「そうかな。そうかも。そんな感じだからあんまり思い出さなきゃいけない気もしなくってさ」 「まいいんじゃないの。そのうち思い出すさ」 「そうかもな。あ、また聖が写ってる」 「そうそれ、小学校の入学式の写真。一年生のクラス一緒だった」 「ほんとだ、いっぱい写ってる」 「六年も一緒だったから卒業式のもあるぜ。中学のもあるし高校も一緒だった。大学も同じ」 「仲良かったんだなぁ」 こんなにたくさんの写真、それから写真よりずっとたくさんの時間。でも僕の中の思い出は、気配も見せない。 僕は彼を思い出したい。マリを母さんを思い出したい。アオのことを思い出したい。でも、僕には全然思い出せない。 マリも聖も僕を急かさない。誰もこの事態に焦りを見せない。だから僕は、必死になるタイミングをついつい逃してしまう。 その日は夜もマリと二人だった。彼女と向かい合って夕飯を食べながら、朝見た写真の話をした。 この家にはたくさんの写真がある。写真が好きなお母さんの影響で、僕とマリも写真をよく撮るそうだ。聖も写真を撮るのが好きだから、みんなすごく話が弾む。今回のように彼がたくさん写真を持ってきてくれるのもよくあることらしい。 「朝の写真よく撮れてたね」 「そうだね」 「なんか変な感じ、全然覚えてないのに」 「まあそのうち思い出すでしょ。写真見てたら何かわかるかも」 「そうだなぁ。あ、ごちそうさまでした」 「ごちそうさま。食器台所ね」 「うん。今日は僕洗うよ」 「じゃあ頼むわ。私洗濯物たたむ」 僕は台所に、マリは窓際の選択かごのところへ行く。 「あれ聖が焼き増してくれるって言ってた」 「そうだった。どこに置いたっけ」 「そこの本棚のとこ」 「あった」 マリは正座していて、タオルをたたむ手を止めて写真をめくる。今朝のように、ぱらぱらと見ていく。そのまなざしは、やっぱりやわらかくて、あたたかい。 「そうだ、彼氏にもあげたら。何枚か一緒に写ってたじゃん」 マリが手を止めずに答えた。 「多分迷惑がると思うよ。いらないんじゃないかな」 二つ目の茶碗に手を伸ばして僕が聞く。 「え、なんで」 「だって別に写真いらないんじゃない?別れたから」 「え」 一瞬絶句して、流しの水の音も聞こえなくなった。 この時はどうしてこんなに驚いたのか自分でもよくわからなかった。 今は、彼女のまなざしにこもった意味はわからなくても、そのやさしさが本当に印象に残っていたからかもしれないと思うけれど。 「別れちゃったって……なんで?」 「別に…他の人のことの方が好きになったみたいだったから、もういいかなーと思って」 マリは平然とシャツを畳み続けている。僕の手は止まりっ放しだった。 「え、でも…好きだったんじゃないの、付き合ってたんだから、その人のこと…」 「まそうだけど。でも始め向こうから付き合ってって言われたし、特に惜しいこともないし」 「そんな」 「あっちから付き合ってって言ってきたのに別れてほしいなんて言いにくそうじゃん。そんなこと言う気あったかどうか知らないけど」 「ええー…」 「はは、なんか不満?」 「え、いや、だって、マリは、その、矢田さんのことすごく好きなのかと……思ってたから」 「そう? 別に嫌いじゃなかったよ。彼いい人だしね」 「そうなんだ。なんか…びっくりした。いつ別れたの?」 「んん? あんたが事故る前の日とかかなぁ、いやその日か?よく覚えてないけどその辺」 「ふーん…」 ぎこちない顔と声のまま、そのあとはまた写真選びの話に戻り、僕は食器を洗い終えた。マリはまだ洗濯物を畳んでいたから、僕は自分の部屋に引っ込んだ。 次の日昼ごろ聖がうちに来た。彼はいつもたくさんのことを早口で話すのだが、この日もそうだった。 「これからバイト行くんだけどお前も一緒に行かない?」 「え、写真屋の? 僕もやってたの?」 「いや、やってないんだけど、店長が知り合いだからどうしてるか気にしてんの」 「じゃあ行ってみる。閉じこもってんのもあれだし…今すぐ出た方がいいの?」 「いや、バイトは四時から。十五分ぐらいで着くし三時半ごろ出るか」 「わかった。それまでどうする?」 「そうだなあ。また写真見る?」 「あ、写真って言ったら、そういえば、マリが彼氏と別れちゃってたのって知ってた?」 「え? 別れてたの? あれー別れたんだ。いつ?」 「知らなかったんだ。僕が記憶なくした日かその前の日だったって」 「どっちだよ。相変わらず適当だな〜」 「マリって適当なの」 「あいつは結構テキトーだよ。ちゃんとやることはやるけど、妙なとこ適当だよ。そっかぁ別れちゃったのか。なんか悪いことしたな昨日、写真なんかいらねーよなあ」 「あ、でも熱心に見てたじゃん」 「そいやそうだな。なんだろ、写真でいろいろ思い出して切なくなったりするようなタイプじゃないだろ。ていうか、振ったの?」 「そう」 「そうだよな〜あいつなら振る方だよな〜マリが振られるとこなんて想像できる? お前」 「うーん…できない」 「だよな〜なんで別れたのかなーっていうかそんなら写真の何見てたのかなーアトラクションにハマるタイプでもないぞ」 「わかんないけど。写真見てるとこ楽しそうだったからさっき聞いてびっくりした」 「そうだなぁ。じゃあ焼き増しはいらないって?」 「あ、でもよく撮れてるの何枚かはほしいんだって」 「ふーん。わかった。よく分かんないやつだなあ」 「僕はマリのことどう思ってたんだろうな。全然わかんないや、マリのこと」 「うーん、お前なりに理解してるように見えたけどね。けど傍からみてると、まあ」 「あんまり分かってなかった?」 「いや、感覚の違う姉弟だなって思ったよ」 「ふうん? よくわかんないけど」 「まーそのうち思い出すだろ。あんまり焦んなくていいさ。さ、写真みようぜ」 聖はまだ見てないアルバムの一冊を手に取った。高校の入学式の写真で始まっている。なつかしそうにページをめくる聖を見ながら、僕は“じゃあ、いつまで経っても思い出せなかったら?”という言葉をのみこんだ。 そんなの聖にわかることじゃないし、僕を焦らせまいとしてそう言うのもわかる。でも、僕は本当に焦っているんだろうか。僕は本当は焦っていないんだろうか。 誰も僕を急かさない、彼らに囲まれて、僕は彼らに甘えているけど、それでいいのか悪いのか、僕が思い出したいのか出したくないのか、どう感じるべきでどう感じているのか、僕は、もう何もわからない。 みんなは、僕に思い出してほしいと思っているんだろうか? 三時半になって、僕たちは家を出た。アオが庭先で横になってしっぽを振っていた。 写真屋に入ると店員が二人いて、男の人が店長、もう一人がバイトの女の子だった。 二人とも僕の顔を見るなり笑ってあいさつしてくれたから、どちらも顔見知りらしい。少しだけ気まずさと罪悪感が胸の中をざわざわさせる。 「よかった、はねられたって聞いたから心配してたんだよ!ケガとかないみたいでよかったね」 「思ったより元気そうでよかった。僕が店長の今村です。聖から聞いた? お客さんに、はねられるとこ見たって人がいて、心配してたんだよ」 「え、見てた人がいたんですか?」 どきんと胸の鳴る音がする。 「そう。君が犬連れてぼんやり歩いてるところに、よそ見した軽トラの兄ちゃんが急に走り出そうとして、だけどスピード出してなかったから大したことなかったらいいんだけどねーなんて、高岡さんが言ってらしたの聞いたから…」 「ぼーっと、ぼんやり、歩いてたんですか」 「そう、何か考え込んでるようにも見えて、ああ声かけようかなーって思ったけどやめたらしいのよ。そしたら横断歩道でそんなことになっちゃって…」 「考え込んでた…」 「それでも犬かばったって言うんだからさすがよね」 「そうだったんだ…」 「ともあれ元気そうでほんとに安心した。ダメよ注意しなきゃ…事故のこと聞いて心臓止まるかと思ったんだから」 「あ、はい。気をつけます」 今村店長の心底心配げなまなざしに押されながら、僕の心は一つの事に吸い込まれていた。 考え込んでたって? 何について? 事故のあと、目を覚ましてからまるで現実味を感じなかった記憶を失う前の僕。自分の一部のはずなのに、取り戻さなければとどうしても感じられなかった自分自身。 その人が、何かを考え込んでた、うっかり車に撥ねられるくらい考え込んでた、そんな重大なことって何だ? このとき初めて、やっと僕は、自分のことを思い出さなければいけないと思うようになった。 それから僕は聖がバイトを終わるまでずっと店に一緒にいた。教えてもらった写真の現像やいろんな作業はなんだか手になじんだ感じがした。ああ僕は写真をやってたんだなと、家で自分の撮った写真を見た時より強く感じた。 暗くなってから二人で家に帰った。 「おかえり」 「あれ、お母さん、早かったんだね」 「そうなのよ。早めに上がれて今日はラッキー」 「よかったね」 マリとは毎朝毎晩顔を合わせるので慣れたんだけど、お母さんとは夜夕飯の後しか会わない。仕事の忙しいお母さんはみんなが起きる前に家を出て、僕たちの夕飯が終わってから帰ってくる。お母さんはのんびりした優しい人だけど、まだすこしマリと比べると緊張感がある気がする。 「今日、聖のバイト先行ったよ」 三人の夕飯はこれで二度目だ。僕は今日写真屋へ行った話をした。でも店長に僕の事故の話を聞いたことは言わなかった。なんとなく話してはいけない気がした。 「店長いい人だよね。ちょいちょいオマケしてくれる」 「いいわよねえ、あーあ、私も現像屋に転職しようかなあ」 「いいんじゃない?日がな一日暗室こもりっきり。向いてるよ」 「でもこもりっきりはイヤ」 「わがまま言う。ねえ」 「うん、そうだね」 「ほら。うんって言われた」 「もう、二人していじめるんだから」 「いじめてなんかないよ」 「そう?で、店長さん何て?お元気だった?」 「すごく元気いっぱいだったよ」 「よかった。ずいぶん前からお世話になってるのよ。高校であなたたちが写真部入るようになってからは特に」 「そうそう、聖は高校上がってすぐバイトもするようになった」 「僕はどうしてしなかったの?」 「あんたは写真部の副部長で忙しそうだったしね」 「そうだった。高校が色々言うのよねー部活に」 「うるさい学校だったよね」 「そうなんだ。全然ピンとこないな、副部長か…」 「ふふっ」 「え、なに?」 「あなたさっきからおからばっかり食べてるでしょ。好みは変わらないんだなあっておもって」 「うん、そういえば…このおから、おいしいよ」 「ありがとさん。唯一の得意料理なんでね」 「マリのご飯はなんでもおいしいよ」 「そうよねえ、マリにはほんと感謝だわ」 「おかげさまでいつでも一人暮らしできそうです」 「あらーあなたが出て行っちゃったらさびしいわ。私たち料理できないもんね」 「そうなの」 「ええ、あなたよくあれ作ってこれ作ってってせがんでは、料理覚えなさい!って言われて」 「僕ってそんなんなんだ」 「そういえば今は言わないね」 「好みは変わらないのにね」 「でも、何でもおいしいし…」 「別にそれでいいんじゃない」 「まぁそのうち思い出すわよ」 「別に無理して思い出さなくってもいいよ」 「え?」 「忘れちゃったのはいらないからかもしれないじゃん」 「そんなことないわよ。大事なこといっぱいあったんじゃない?」 「思っただけ。ま、そのうち思い出すでしょ。医者もそんなこと言ってたし」 夕食のあと、僕は一人で犬の散歩に出かけた。 最初はどの道もわからなくて、アオの行きたがる方に任せていたけど、段々家の回りの地理はわかってきた。 道を歩きながら、マリのことを考える。 マリは僕が思い出さなくてもいいと思ってるのだろうか。僕がまるで記憶喪失でも何でもないみたいに振る舞うのは、僕が何も覚えてなくてもいいと思ってるから? 今は夏休みで、会う人も限られてて、困ることもそんなに無く過ごしているけど、学校が始まって、いろんな人に会うようになった時、さすがに誰も覚えてないんじゃ困るんじゃないだろうか。 でも違う。僕が思い出さなきゃいけないのはそんなことじゃない。たぶん僕には大事な友達がいて、大事な関係を築く人々がいて、たくさん大事なものがある。でも僕の心を急かすたった一つのものはそれとは全然違うものだ。 どうしてマリは僕を急かさないんだろう。どうしてマリはあんなことを言ったんだろう。どうして僕はこんなにマリのことを気にしているんだろう? 僕はたぶんマリのことを好きだった。今も好きだしきっととても好きな姉さんだった。マリを見ていてそう思う。 考えながら歩いていたら、交叉点に差し掛かった。ここで僕は事故にあったのだ。 となりで立って信号を待っていた人の携帯が鳴った。マリと同じ機種の同じ着信音だった。信号が青に変わった。遠くで話す声がする。 「うん、いいよ。え?そんなことないよ。気にすることないのに。うん。 ……、………、そんなことないよ。無理しなくていいよ。矢田君、気にすることないのに。 ……。そんなの気にしてないよ。矢田君、好きなんでしょ。………、…………。 遊園地に行った時、あの子を女の子と間違えたんでしょ?眼鏡壊れてたから…。見てたらわかるよ。好きになったんだよ、矢田君。 ………。………。そんなことない。全然ない。ありがとう、矢田君、優しいね。でも、無理しなくていいんだよ。別れよう」 信号がまた赤になっていた。僕は横断歩道を渡ろうとして、アオに後ろに引き戻されたのと、バイクが走ってきたのにおどろいて歩道側に飛び退いた。また交通事故を起こすところだった。 今度は記憶喪失と打撲なんかじゃ済まないだろう。ラッキーはそう何度も続くものじゃない。 いや、本当にラッキーだったんだろうか?記憶をなくしたのは本当にラッキーだったんだろうか。 彼女は電話していたとき、僕が部屋に入ろうとしてたことに気付いていなかった。僕が気を取られていた他のこと、僕が聞いてしまった電話のこと、マリは知っていたのだろうか。 マリは僕のせいで矢田さんと別れることになってしまった。そのことを考えながら僕は歩いていたのだ。電話を切ったあと、マリはさみしそうだった。そんなの当然だ。それから彼女はつぶやいたのだ、僕の名前を…。 ねえさん、と言ってみたくなる。口にしたことのない言葉を、口にしてみたくなる。私の口にそのことばは全くなじまない。 なぜだろう、あのひとは、私が生まれてから19年間、ずっと私の姉であったはずだ。 いや、違う、彼女は、本当は姉ではなかった、でも父さんと母さんが結婚したから、彼女が六歳のとき、四歳だった私のお姉さんになったのだ、でも、彼女は、あの時からずっと「マリ」だった。 一度もお姉さんと呼ばれたことのない姉なんて、お姉さんだったことのない姉なんて、いるのだろうか。それでも私にとってマリは、私を誰よりわかっている、私の姉なのだ。 私が彼女を好きであるのと同じように、彼女も私を好きでいてくれる。 私はマリのことをなんにもわかっていなかった。 蒸し暑い夏の夜、アオに引きずられるように、ゆっくりゆっくり帰途につく。 家に帰ると、母さんが居間で一人でお酒を飲んでいた。 「おかえり。遅かったね。マリはもう部屋よ」 「ただいま。…ねえ、母さん」 「ん?」 彼女の柔らかいまなざしが僕の顔に向いた。マリとよく似た目をしていた。 「ん…先に寝るよ。あんまり飲み過ぎちゃダメだよ、金曜だからって」 「大丈夫です。あら、お散歩行ってだいぶすっきりして来たね。よかったじゃない」 「うん。おやすみ」 母さんはウイスキーを片手にほほ笑んだ。私もつられて笑い返して二階へ上がった。 マリの部屋はまだ明かりがついていた。私は開いたままの扉のすきまから部屋をのぞいた。マリが、窓を左手にして床に座っていて、顔だけで窓の方を向いていた。こちらから彼女の右頬と右目が、横顔と言えるか言えないかの角度で見えた。 彼女の表情は直接には見えなかったが、半分閉じた窓に映ったマリの顔にはどんな色も浮かんでいなかった。何の感情も浮かべずに手元に視線を落とす彼女の姿に私は胸を衝かれた。私はずいぶん長い間彼女を見つめていたような気がした。彼女の目から、こちらから辛うじて見えている彼女の右目から、涙が一粒こぼれてくだけた。私ははっとして息をのんだ。 彼女の左手にあるその写真に、私がうつっていた。私の息はとまっていた。彼女が私を愛していたということを、私はそのとき初めて知った。 |