大学に入るとき買った黒のリクルートスーツに、黒いタイツとパンプスで、コートだけは灰色のPコートを着て、シートに座って電車に揺られながら、私は向かい側の窓ガラスにうつった自分の顔を見ていた。まるで何も考えていなさそうな無表情だった。実際何も考えていなかった。ただこれから降りる駅の名前だけが頭の中をまわっていた。名前は知っているけれどはじめて降りる駅だった。電車が止まって人が降りていき乗ってくる。いつの間にか表は雨が降り出しそうな曇天になっていた。

彼らに初めて会ったのは、高校1年の9月の初めだった。私は美術部に在籍していたが、その部は規則も活動内容も特に決まっておらず、協調性とかいうものがない、好きなときに来て好きに創作活動に励む生徒の集まりだった。だから、よく会う人もいれば全然知らない人もいたりして、1学期の間は私は彼らの存在も知らなかった。2学期が始まった9月の第1週のある昼休み、私は友達と一緒に美術室に行った。彼らは教室の1番前の列に座っていて、彼女が左の窓際、あの人はその右隣だった。1つ上の学年の上履きを履いていた。私が彼らを見かけるとき、2人はいつもその位置に並んで座っていた。その日、私は友達と教室の1番後ろに座り、やりかけの美術の課題をいじくりながら2人の背中を見ていた。夏の光に照らされて光る、白いワイシャツの背中を見ていた。絵筆を洗いに流し場に行ったとき、私は初めて彼女を会話した。私たちは名乗りあって、美術室にクーラーがないことへの不満を言い合った。

彼女は大雑把でうっかりしていてよく何もないところで転んだりするような人だった。時々自分のいい加減さをもてあましているようにも見えた。それと反対にあの人は生真面目でしっかりしていて、ちょっと融通の利かなさそうな雰囲気の表情をいつもしていた。2人はとても気が合うようで、いつも1番前の席に並んで座って、やくたいもない話をしながら絵を描いていた。彼女のおおらかさが、あの人の神経質さを、あの人の細やかさが、彼女のある意味でのぎこちなさを、救っていたのかもしれない。

彼女と私は特に親しくなるきっかけがなかった。顔を合わせればあいさつしたし、それに私は彼女の作品が好きだった。こんな絵を描く人がいるんだなあ、こんな絵を描く人はどんなことを考えているんだろう。初めて彼女の絵を見たとき、そう思った私は、彼女に恋していたのだと思う。けれどもそれは彼女と私を結びつけるきっかけにはならなかった。なぜだろう。反対に、あの人の作品に特に私は惹かれなかった。ああ、この人はこんな絵を描くのか。そう思って、でもすごく好きだと思ったりしたことはなかった。けれども、あの人とはある時から少し話をするようになった。駅でたまたま出くわして、お茶をのみながら一緒に電車を待つ間、私たちは妙に低いテンションで淡々と言葉を交わした。妙に落ち着いていたといってもいいかもしれない。どうでもいい世間話を妙なテンションで続けながら、話がこの間の文化祭での展示のことになったとき、あの人はぽつりと、私の絵がとてもよかったと言った。あの人が私について何かを言ったのは、後にも先にもこれきりだったように思う。

ある時、私はどうしようもない気持ちで流し場で筆を洗っていた。外はまさにどんよりした曇天で、今にも降り出しそうで降らないでいるはっきりしない空模様で、何がつらいというのではないけれど、どうにもやりきれなくてしょうがなかった。もう完全に絵の具が流れてしまった絵筆をいつまでも流れる水に浸していた。心の中があふれそうになったとき、隣に彼女が絵筆を洗いに来た。そのとき彼女のひじが私のひじに触れたのを覚えている。秋口の半そで同士で、おたがいの少し冷えたひじがこつんとあたった。彼女は私に何も言わなかった。黙っていつまでも流れる水に筆を浸していた。2人で並んで蛇口の水の音を聞いていた。先生に節水しなさい、としかられるまで、私たちはそうしていた。あの時私は救われていた。隣にこの気持ちを共感してくれる人がいるのだと、そう感じて、それだけで私は心底救われていた。彼女と私は本当に、特別親しかったわけでもなんでもなかった。それでも私は彼女に救われのだと思った。

間もなく私は見知らぬ駅に立っていた。改札の前は人でごった返していた。案内にしたがって駅を出ると、幸い雨は降り出していなかった。見知らぬ駅に、夜、それも曇り空の下立っているというのは、非現実な感じを出すのに十分な状況だった。頭の中だけ別世界にいるような気分で目的地にたどり着くと、焼香の列であの人を見つけた。彼らが卒業してから1度も会っていなかったけれど、誰かがわからないというほどには変わっていない横顔が、あいかわらず融通の利かなさそうなまじめな顔が、少し眉を寄せて正面を向いていた。焼香を済ませる間もなんとも非現実的な気分だった。4年も会っていなかった人なのだ。私が彼女を知っていた高校での2年間確かに生きていた人なのだ。でも彼女はもういないのだ。どこにもいないのだ。なぜだろう。わからないけれど彼女はもういない。焼香を終えて外に出て行くと、あの人がぼんやり立っていた。放心したように立っていた。声をかけていいのかどうかわからなかった。私は立ち止まり、ぼんやり彼を見た。急に立ち止まった私に後ろを歩いていた人がぶつかりそうになって、私ははっとして謝った。顔を彼のほうに戻すと、彼も私のほうを見ていた。お互いどうしようもない間抜け面をしていたと思う。どちらともなく駅へ向かって歩き出した。無言のまま改札を抜け、まもなくやってきた電車に乗り、たまたま空いた席に並んで座った。私の背筋は硬直していた。何も言える言葉がなかった。考えてみたら、卒業した後の彼の進路も知らなかった。確か大学に現役で入ったという話を誰かがしていたのを聞いただけだ。その大学も、彼女と同じだったのかどうかとか、彼女との交友関係がまだつづいていたのかどうかとか、本当に何も知らなかった。あまりに何も知らない自分が少し面白くもあった。ただ、これは本当にどうでもいいことだが、彼らが恋人同士とかいうものではなかったこと、高校のときも卒業してからも、そういうものだったことが1度もないことだけはわかっていた。彼らは恋とか言うもので結びついていたのではなかった。あのころ、どちらも相手が必要なんだということが見ているとよくわかった。高校生にしては妙に完成した関係性だったかもしれない。けれどそれはそう見えたというだけのことで、いくらそれを私が確信していても、何も知らないのと全然変わらない。むしろそんなことを確信しているせいでかけられる言葉など余計なくなっていた。

どちらも黙ったまま前を見ていた。電車は揺れて、窓には蛍光灯に照らされた車内が映っていた。疲れきった彼の顔が映っていた。それから凍りついた私の顔が映っていた。電車と一緒に私たちの肩が揺れた。揺れて、私のひじと彼のひじがぶつかった。真冬のコート越しに特に感覚はなかったが、それでもひじがあたったのはわかった。そのとき、今自分たちが抱えている喪失感のことを思った。今、私も彼も同じ喪失を抱えているのだと思った。彼のほうが彼女をよく知っていたかもしれない。彼のほうが彼女といた時間は長かったかもしれない。確かに私は彼女のことを全然知らないかもしれないし、ずっと会ってもいなかったかもしれない。しかし今私たちは、同じ喪失に直面して、1つの時間を共有している。涙は出なかった。むしろ瞳はどんどん乾いていくようだった。窓ガラスにうつる風景がふと歪んだ。雨が降り出して、雨粒が窓に叩きつけた。私の目は今窓の外に当たる水滴を眺めていた。次から次へとぶつかってくる雨粒が、小さな川の流れのようになって、下へと流れてゆく。空はもう曇天どころではなく、雲も見えないほどの豪雨になっていた。雨が降り出してしまったらもうやりきれなかった。喪失がわたしの胸から瞳から流れ出していた。


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